勉強において、努力の大切さはよく言われます。「あんた、もうちょっと頑張ったら?」「君は覚えようという努力が足りないんじゃないか」など、言われた経験は誰しもあるでしょう。そう言われて自分なりに頑張ってみました。その結果は…残念ながら、思うようにはなりませんでした。
「はぁ、こんなに努力したのになぁ」と落ち込みます。するとこう言われるのです。「まだ努力が足りない!」
努力っていったい何なのでしょうか。そして、努力をすれば、その努力は本当に報われるのでしょうか。
日本プロ野球とメジャーリーグの両方で活躍し、多くの記録を打ち立てたイチローという人物がいます。彼が、高校野球女子選抜の選手に語った話が非常に興味深いです。そしてそこでは「努力は報われるのか」という話がありました。今回はイチローの言葉を引用しながら、「努力」について考えてみましょう。
目的に沿った努力
「努力は報われる」という言葉について、イチローはこう言います。
高校野球を見ていると、好きな言葉とか出てくるじゃない。テレビを見ていると、よく見かけるものの一つに「練習は裏切らない」とかってよく言う子も。よく言われるけど、「努力は報われる」とか。もう一歩先を見てほしいんだよね、僕は。「練習は裏切らない」は、まあそうかなって思いがちになるんだけれども、でもどう練習しているか次第じゃない…それって。しんどい事を重ねていても、間違ったやり方でやってたら、そんなの上手くなれるはずはなくてさ。
至極まっとうな話です。「速く走るために、懸垂を頑張る」という人がいたら、ちょっとズレているなぁと思いますよね。まったく意味がないとは言いません。体のバランスを整えるとかには役立つでしょう。ですが、本質ではないですよね。速く走るには足を鍛えないといけません。
勉強においても同様です。かつてハイレベル問題集を買ってきて、一問一問質問に来る生徒がいました。解説を読んでも理解できないようで、確認すると本当に難しい問題集でした。しかし彼の志望校には、そこまでの問題は求められていないんですよねぇ…
それに対して、かたくなに応用問題に取り組まない生徒もいました。彼は毎回それなりの点数を取るのですが、もう一歩伸びきれません。ライバルにいつも少しの差で負けて、「こんなに頑張ったのにー」と悔しがっています。そりゃ、できる問題だけをやっていてもねぇ…
目的に合わせた努力の内容があります。間違った努力をしていないかを確認しましょう。視野が狭くなって、どうしても自分では見えないこともあります。わからなければ、他の人にアドバイスを求めるのが良いかと思います。
努力とは何か
次は「努力とは何か」という話です。イチローはこう言います。
自分は頑張ってるから、結果が出る。上手くなれる。そうありたいのもわかるんだけど、だけどその努力っていうのは本人が決める事じゃないでしょ。 「俺、努力している」「私、努力してます」って、何か変な感じしない? 自分で言ってたら。チームメートたちが、あいつは頑張ってる、すごい努力家だ。それはもちろんいい。第三者の評価でも。自分でさ「私、努力しているのに、なんで上手くなれないの」とか、おかしくない? それって人が決めることだから。
こういうことがありました。
ある生徒が定期テストに向けての自習として、毎日塾に来ています。とはいえ、集中力が続かないのでしょうか、少しやっては休憩してスマホをいじり、少しやっては休憩して近くのコンビニにスナック菓子を買いに出かけます。結果は推して知るべし。惨憺たるものです。
ところが当の本人はこういうのです。「こんなに頑張ったのに…」
これまでテスト前でも塾に近寄ろうともしなかったことを思えば、毎日塾に来たのは勉強に対して前向きな気持ちの表れなのでしょう。それを持って彼は「頑張った」「努力した」と言っているのです。しかしそれを聞いた周りは、苦笑せざるを得ません。
その当人が言う「頑張った」「努力した」は、本当の意味での「努力」ではないのです。「努力」とは、イチローが言うように、「あいつ、努力しているなぁ」という、第三者からの評価の中にしかないものなのです。
努力は報われるのか
次は「努力は報われるのか」という話です。イチローはこう言います。
報われてほしいけど、見返りを求めたら返ってこないでしょ。それに近い感覚だと思わない? 努力したら報われる、上手くなる。練習したら上手くなる。同じ事だよね。目指してほしいのは、人が見てたら努力に見えるけど、本人はそう思っていない状態。それっていうのは結構強いと思う。私にとっては普通のことなのに、何かそうやって周りは評価してくれるな、だったら、すごくいい状態だと思うね。
イチローは「報われてほしいけど、見返りを求めたら返ってこないでしょ」と言います。見返りを求めること自体、疑問視しています。「何か目的があって、それに向けて努力する」というのは普通の感覚です。ですが、そういうある意味打算的な行動は通過点で合って、目指すべき場所ではないのですね。
目指すべきはその先、自分が努力と思っていないのに、他人からは努力に見える状態。そうなれば、「目的」や「目標」「こうなれば…」という見返りが、意識に登らなくなっているのでしょう。その段階でようやくその努力が報われつつあるという話です。深いですねぇ。
それについて、ある人物が思い出されます。
彼女はそれなりに良くできていましたが、ちょっとのんびりした生徒でした。夏休みに学校説明会に行って、志望校を決めてきました。そこはその地域のトップ校で、彼女にとってはやや難しい学校でした。
彼女は夏休み明けから毎日塾に来るようになりました。学校から直接塾にやってきて、終わりの時間までそのままずっと勉強を続けます。入試問題に取り組んでいたのですが、初めのころは、分からない問題をちょこちょこと質問していました。時々様子を見ると、難問に取り組んでいるのでしょうか、ため息をついている場面や、うなだれている場面にも出くわしました。
ところが、彼女からの質問が減りだしました。様子を見に行くと、黙々と問題に取り組んでいます。実力がついてきたことにより、自分で解説を読んで理解できるようになったのです。以前は「何をしたらいいですか」という質問もあったのですが、この頃になると自分でやることを見つけて、それに取り組んでいます。
私は「ものすごく頑張っているなぁ」と彼女の様子を見ていたのですが、おそらく彼女はこの頃は努力しているという感覚はなかったようです。卒業後にそのころの話を聞くと、むしろ勉強が楽しいとさえ思っていたそうです。
つまり最初のころの質問してはため息をついていた時期は、イチローが言うところの「私、努力しているのに、なんで上手くなれないの」という時期だったのでしょう。それがだんだんと実力がついてきて、勉強が楽しいと思えるようになると、努力を努力と思わなくなっていく。それが「人が見てたら努力に見えるけど、本人はそう思っていない状態」なのでしょう。
結果彼女は、志望校に無事合格することができました。努力が報われたのです。
まとめ
「努力は報われるのか」をテーマに書いてきました。結論としては、正しい努力は報われます。ただしそれは、努力をしたから報われたのではないのです。努力には先があることを、イチローは教えてくれました。つまり「こんなに頑張っているのに…」はまだ道半ばなのです。
そう考えるとなかなか厳しいですよね。めげそうにもなります。ですが、道半ばということは、間違いなく目標には近づいているのです。「経験が少ない人ほど自分を過大評価する」「経験の多い人ほど自分を過小評価する」というダニング=クルーガー効果にもある通り、頑張っているときほど自信を無くすものなのです。
ただ正しい努力をしているのなら、そのうち周りから「あいつ頑張っているな」という声が聞こえだします。そして自分が「え? そうかなぁ」と思えるようになるでしょう。
そうなれば、その努力は報われつつあるのです。
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